猪俣猛プロフィール
TAKESHI INOMATA STORY
コンサートなどで使用されている
プロフィールは
こちらです
14才の時、1枚のSP盤を聞いて猪俣猛はドラマーになることを決意した。ベニー・グッドマン・オーケストラのカーネギーホールコンサートのライブ盤で、曲は「Sing Sing Sing」、ドラマーのジーンクルーパーに「しびれた」。「プロのドラマーになって、いつかカーネギーホールの舞台に立ちたい」という夢はこのとき芽生えたのだった。夢は見るもので、1994年10月6日、彼はついに念願のステージにたった。
猪俣猛は兵庫県宝塚市生まれ。宝塚歌劇団のオーボエ奏者だった父と天才トランペッターとして名をはせた兄に影響をうけて、幼い頃から恵まれた音楽環境で育った。プロドラマーになりたいと思い立ってすぐに神戸の早川楽器店で初めてのドラムセットを父に買ってもらった。大阪の、その名も「クルーパー」と言うメーカーのスネアドラムだ。店の主人に、「ぼうや、楽器は大切に扱うんやで」といわれた声が今でも忘れられない。
それからは、昼は宝塚歌劇場のオーケストラ・ボックスでレビューやミュージカルの演奏を聴く。夜は父が出演していた神戸の「ビー・ファイブ」というシビリアン・クラブで働きながら、ジャズのグルーブを体で覚えこんだ。
ちょうど戦後の進駐軍の時代だったので、プロとしてのデビューは、ジャズの本場アメリカ人の客が相手だった。米軍キャンプの仕事が多く、「俺たちはバターとハンバーグの匂いをかいで、音楽をやった」と当時を振り返る。
「音楽は、まずハートが大事。テクニックは後でついてくるものだ」というのが持論だ。

「音楽や芸術をやる人間は、さまざまなものを取り込んで、表現力を高めていくものです。日常にあふれている物の中から何を選ぶかが肝心なんだ。それがセンスなんですよ。センスを磨く為には、はじをかきまくることだね」

いま自分の半生を振り返ってみると、ピアニストであり、作曲家でもある前田憲男さんの存在がとても大きい。決して馴れ合いにはならず、常にお互いを刺激しあうよきライバルだ。15年前からは若い世代の教育も手がけるようになった。
「世の中なんでもデジタルになって、子供の心までデジタル化されてきてしまった。ぼくは音楽はアコースティックこそ本物だと思っている。人間関係をうまく作れない現代っ子たちに、ドラムを通してハートの部分を伝えるのがぼくの今の仕事です」

2000年には音楽生活50周年を迎え、これからは全国の子供たちに教えるために、スティックを手に日本中を旅するつもりだ。
2000年 猪俣猛50周年記念コンサートより

新人賞受賞21才(1957)

ヤマハドラムのモニターになった頃(1966)

念願のカーネギーホール公演(1994)

飛鳥ワールドクルーズ(2002)
▲プロフィールトップに戻る
Copyright(c) 2003-2017 Takeshi Inomata All rights reserved.